昭和42年8月30日 夜の御理解
段々信心を分からせて頂いて自分ながら有難い。自分ながらあえてわが心が拝めれる様な境地とでも云うか、そういう様な心の状態が信心によって出来て行くことが信心。信心をして行きたい。奥床しいと、奥床しいどころか本当にまあえげつないと、信心しておってようなそんなことが思えたり、そんなことが平気で出来ると云った様なことでは奥床しいなんて云うような信心が出来る筈はございません。
昔、あの豊臣方の木村重成という若い武将がありましたね。その人がいよいよ今度の戦争は味方に分のありと云うことが分かっておったけれども、やはり戦場に臨んだ。時に自分の使用しておる兜の中に香を焚き込めた。と、まあ自分が打ち死にすることを覚悟の前でね。いわゆる死に様が悪うてはいけない。死臭が漂うようなことに違いないから、それを為に、その為にね。兜の中に香を焚き込めたと聞くだけでも心床しい話である。後の世までもそうしたいろんな意味合においての語り草になる。
信心はですね、そう云う様な意味で本当にいついつまでもそれを語りぐさになる様な信心をさせて頂きたい。まあその信心は尊い信心であると思うんです。
今朝からの御理解に何が何と云うても信心には辛抱が第一だと、いわゆるその辛抱しなければならない内容についていろいろと伺った。先ず、それも木村重成と云う人がまだお小姓に立ついろんなあのその中に茶坊主であの悪そうな坊主がおった。いつも重成がおとなしくしておるもんだから、いつもそのにくじばっかりする。それでもそんなことなんかもう平気でうてあわないからいよいよにくじなんかとそう思ったんですね。その茶坊主がある時お風呂が沸いていた。その時お風呂の湯気で誰が入っているか分からない。どうも格好が重成の様だ。その湯気で誰か分からんからげんこつをまあ致しました。ところが重成じゃなくて、他のこれは大変力の強いお小姓であったと。茶坊主がとっちめられた時にそれを助けてくれたのが重成であったと云う様な話でございます。
または、あの徳川方との和睦の時に血判取りで有名ですね。家康が押した判に不審があるとしてそれを堂々ともう一ぺん自分の目の前で血判を押さしたと云った様な沈勇と云うですかね、勇気のある人です。そういう勇気のある人は仕方の無いときには怒りはします。そういうようなものの無い人程表面にいかにも偉そうに、いかにも自分が強がり、弱身にその振りまわなんじゃろ。そういう中に明らかに私が云うたのは、奥床しいなんて言いながらも力があっても、それを自分を隠しておくと云った様な私は、そう云う中に一つ信心の奥床しさと云った様なものがあると思う。
本当にどこまでも実意丁寧に信心を進めて行き、信心の力を頂いて行く。ところがです、お互いがそういう様な詰まらん者が自分の内容にあることが分かっているから、改まらなければいけないと思うても、信心が出来ていないとそれが結局そういう軽率な事になって行く。
今日、私はお許しを頂いて何時もお願いすることなんですけれども、お許しを頂きません。あの住宅の方の花が植えてある所の庭がね、何時も一杯散らかっておる。もう草が一杯生えておる。今日はお許しを頂きましてから私が素足になって、そこに皆若い者が下りて来ましてから清掃が出来ました。もう、それこそ自分で自分が住むんでございますから、もう隅から隅までいや隅こそあの念を入れて草も取り掃わきもさせて貰って、もう本当にこちらへ移って来て以来、初めての外掃が出来た。でもこれからこの様に何時も掃除をしておくように子供達に申しましたことでございますけれども、本当にあの清掃をするということが、こんなにもすがすがしい気持ちの良いことかと云うこと。しかも隅から隅までを清掃するということがです、気持ちが良いと云うことを感じると同時にです、んなら、それが又三日も一週間も持てるとは言えん。又散らかってしまう。中でも私あの雑草です。今日はあの取っても生え、取っても生えする何かと云う草があるです。こうぼしかなんかと言う。初めて私聞きました。これがこうぼしと云う草ですよ。本当何故か摘んで取れば根が取れた様にあるけれどもです。
今日は久富先生が鍬でいちいち起こしてそれからその根の下に、また、このラッキョウの様な根が下に入っている。私はこういう様なことじゃったら、瞬く間に芽が出る筈じゃなあと私は思うたんですけれども。そういう根を取る為にですね、私共が本当に改まると云うことでなく、只芽だけを摘み切った様な改まり方では、又同じ芽が出て來るね。
ですから、私共の、なら日常生活の中にはですね、やはりそのでんぐり返る様なことがあるです。中にはね、様々な難儀に直面する時も、ほんとに自分の心の中がでんぐり返る様な時にです、私本当にその球根であるその根を取り出さなければならない。その根の中にです、今日私は奥床しいとは反対のもの、もうそれとは似ても似つかないもの、信心のある者はそういうものを持っておったんではいけないもの。そうい雑草の根をですね、取り除かなければいけないなあと云うことを思わせて頂く。そうしたら、只今私が木村重成の話の血判取りのことを。お風呂入りの出来る事。それから兜の中に香を焚き込めたと云う、そういう話は今晩の御理解の中に重成のそういう様なことを次々と思い出させて頂くね。
先ず、何と云うても辛抱強うなからなければいけないね。しかもね、相手が茶坊主程度の者がとやこう言うたからと云うて、それには場合によっては卑屈にも見える。臆病者にも見える。度胸が無い様にも見えるけれども、そこんところを私辛抱する力が必要である。と、云うていよいよの時にはです、例えばそういうものにでも自分が詫びを云うて中に入れてやれる様な豊かさがいる。いよいよの時にはそれこそ、ここはと云うところにはです、それこそ敵将のぶその中にあって一人血判取りにその行って、その血判に怪しいと思ったら自分の目の前で家康に血判を求めると云った様なです、もう知勇と云うでしょうかね、そういう私は度量というものがやはり信心がいる。そういうような私は中からですね、本当に兜の中に香を焚き込んだと云う様な奥床しい信心と云った様なものが伺われてくる様になる。そういう信心こそが私は尊い信心だと思うのです。合楽の信心にそれは若さが一杯ある。一生懸命と云うことにはまあ、とても負けない。誰も負けない様なものを持っておるけれども、また信心が私を初め皆の信心が若いだけに、まだその奥床しいと云うころの信心を感じない。どうでも一つそういう私は奥床しい信心の薫りが漂う様な信心を目指したいね。
それにはです、私はどうでも私は陰徳を積まなければいけないなと、陰の徳である。誰が知らんでも良いのである。神様だけがご承知であるから、馬鹿にもなれるのである。神様だけがご承知であるからわざわざ自分がこういう事をしたと見せびらかさんでも良いのである、ね。そこんところを私共は、私今日自分でも自分ながらそう思うたんです。今日あの八女ですかね、黒木です。黒木町から大変おかげを受けた方が有る方をお導きして来た。いわゆるこの方はあの生長の家の修行である。熱心な方です。ところがその生長の家の随分まあ勉強もしたが、随分話も聞いたけれどもですね、本当に助かると云うことは、それはその道理も説き明かしてあるけれどもですね、丁度こう着物の上から痒い所を掻いて貰っていると云った様な感じなんです。と、云う様な話をしたところが、ここに参って来ておる人がです、そんなら一ぺん合楽にお参りしなさい。私がこうやっておかげを頂いているからと云うので今日はお導きをして来ておる。
まあ、それでまあいろいろ信心のお話をさせて頂いてから、非常に共鳴してですね、金光様の信心の有難いことを生長の家なんかで勉強しておりますから、分かりが良いんです。まあそれまでは良かったんですけれどもですね、先生是非あのここのご建築を見に来てからきたいと云われよりますからと云うから、そうですか、それなら私が案内しましょうと言うてから、午前中の云うならば時間のない私が一部屋一部屋見て回らせてからそれこそ、もう本当に後から見たら、あれが自慢と云うのであろうと、もうその色々説明までしてから部屋を見て回ってから、はあ本当に自分ながらおかしいなあと思った、ね。それはなるほど、良い神殿、立派なもご普請でもございますね。 ですから、それだからと云うて、私が自慢するところは何もないからね。ですから、これから私はもう人がここを見に来ましても自分でですね、これはまた特にまあその、礼儀、エチケットまででも私がそのまあ、案内しなくてはならない人の場合には、いざ知らずだけれどもね。普通の方達がまあ、参観にでも見えても私が先に立ってから、これから見せて回る様なことはこれからはもう、いっちごせんが。
自分で今日はしみじみ思うたね。見せて回るだけなら良いが、そこにやはり自慢気が出る。いわゆる奥床がなしさと云った様なものはみじんもない。もう、あるだけのものをこうさらけ出したと云う感じ。その後にもう、とにかく後口が悪いね。私はだからそういうですね、自分の心の中にこういうことははしたないことだなあと、こういう様なことが奥床しいこととは反対のもんだなあと、云った様なものを感じたらですね、そこんところを本気で取り組ませて頂こうとする、やはり精進が必要である。と同時にですね、摘んでも摘んでもまた下からそれこそ、雑草の根の様に雑草の様に生えて來る、それをそれこそ下からうち耕してからね、只引き抜いて掘っただけではいかん。摘み切っただけではいかん。その根球から私は取り除かせて貰い、深く掘り下げなければいけない。自分の心がでんぐり返る様な時こそ、そういう私はめぐりの根をいよいよ取って芽を出して頂く私はチャンスであると云う風に心得ておかげを蒙って行かねばならぬ。合楽に一番欠けておるもの、それはある意味で素晴らしい、ある意味で生き生きしておる、ね。美しいけれどもね、奥床しさと云った様なものに一番欠けておると云うこと。
そういう意味合では歴史を持った教会なんかはね、そういう信者さん方が何人かおられますよ。何とあなしに素晴らしいなあと、こう思わせれる信心。そういう信心を私共は目指したいと思うですね。 どうぞ。